器とたべもの

食べ物や器のことをとりとめなく書いていきたいです。時々木の器を作ってます。

飛鳥から藤原京への移り変わり 奈良文化財研究所で古代の都の様子を知る


こんにちは、コタツです。

6月にも半ばになり、どんよりとした曇り空の天気が続いて庭にはアジサイが咲いて梅雨らしい風景が広がっているなと感じる毎日です。

先日、曲物(まげもの)の記事を書いたときに訪れた奈良市の平城宮跡(へいじょうきゅうせき)にある奈良文化財研究所(ならぶんかざいけんきゅうしょ)が楽しかったので、明日香村(あすかむら)と橿原市(かしはらし)にある資料館も合わせて紹介したいと思います。

まず初めに、明日香村の「奈良文化財研究所飛鳥資料館」に行ってきました。

飛鳥資料館は以前このブログで少し紹介したことがあります。
www.utuwa-tabemono.com



館内の見学は有料で、チケットを購入すると素敵なパンフレットをいただけます。


入口を入ると看板に7世紀に作られた重要文化財の「石人像(せきじんぞう)」が出迎えてくれます。

この男女の石像は、内部に穴が開いていて男性の口の杯と女性の口から水が出る噴水になっています。

館内は明日香村とその周辺で発掘された品々や遺跡類の解説模型などが展示されていました。

土器類。


高松塚古墳(たかまつづかこふん)の解説と壁画の複製。



金属職人が道具を作るときに使った型。


日本最古の貨幣と考えられている富本銭(ふほんせん)。

その他にも寺院の宝物や保存処理された最古の建築資料など見どころがたくさんありました。


記念にスタンプを押しました。

飛鳥の地では天皇を中心に豪族たちによる政治が行われていました。
天皇の住まいと政治を行う宮(みや)は、天皇が代替わりすると権威を示すためにも新しく作ったり場所を移動していました。
その間にも、現在の明日香村だけでなく滋賀の大津(おおつ)や大阪の難波(なにわ)に宮が移ることがありました。


続いて、飛鳥資料館から車で10分弱走ったところにある「奈良文化財研究所藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)資料室」に移動しました。

近くに橿原市の藤原宮跡資料室もありますが、名称が似ていて場所が違うので注意が必要です。



こちらは、万葉集にも登場する大和三山(やまとさんざん)の1つ香具山(かぐやま)のそばにあります。

館内は入場無料で展示物は飛鳥資料館より少ないですが、ガイドの方が熱心に説明をして下さって一人で見学するより数倍楽しめます。

京の人がお出迎えしてくれます。

たまたま、見学した時は私一人だったので疑問に思ったことを片っ端から質問していきましたが、そのほとんどを答えてくださって「すごい知識量だなー」と感心してしまいました。

現在の中国、当時の唐(とう)の京をモデルに5,3㎞四方の碁盤の目状の京を建設しました。
 

こちらの写真は橿原市の藤原宮資料室に展示されていたものです。
藤原京は平城京より広くて、大和三山の畝傍(うねび)、耳成(みみなし)、香具山が軽く収まります。


藤原京(ふじわらきょう)は、政治を行う大極殿(だいごくでん)や天皇の住まいである内裏(だいり)を含む藤原宮(ふじわらきゅう)を中心に、現在の皇居と国会議事堂や各省庁が集まったような国家の政治の中心部です。

藤原京の特徴は、この国で初めて都が作られた事と、それまで政治に関わっていた豪族から役人による国家運営に変わった事にあります。

藤原京の建設には、677年から始まり途中休止期間もありましたが694年に完成しました。



藤原宮跡。
菜の花やコスモスが楽しめる花畑や野球場などもあります。


大極殿の跡地周辺。広大な空き地です。
藤原宮跡資料室から歩いて14分位の所にあります。

藤原京が作られた地域はもともと古墳などが多くある凹凸のある地形だったそうですが、
都を作るにあたってその地域にあった古墳などを壊して平坦にしたそうです。

しかし、ただ乱雑に壊したのでは無く丁寧に発掘し副葬品などと一緒に別の場所に埋葬しなおしたそうです。

藤原京跡から発掘された埋葬しなおしたと考えられる副葬品。

そして驚くのは、藤原京のメインストリート朱雀大路(すざくおおじ)を作る時に、建設予定地の途中にあった日高山(ひだかやま)を半分に削ったそうです。


赤い矢印の部分が削られた部分だと思います。
人力で山を削るとはスケールが大きすぎます。



木材と木くずや道具類。

藤原京の建設に使われた木材は、滋賀の大津で伐採されて宇治川、木津川を経て藤原京に運ばれたそうです。
この辺りは奈良市の平城京とほぼ同じルートです。

ガイドの方に、吉野や奈良県南部の木材を使わなかった理由を尋ねると、藤原京の建設までに飛鳥でも宮などが多く作られたことによって、この頃には吉野に木材がほとんど無かったと考えられると話されました。

そういった歴史背景があったからこそ吉野は持続可能な林業を行うようになったのかなと思いました。
www.utuwa-tabemono.com



藤原宮の広さは1㎞四方あり、その周りを「大垣(おおがき)」と呼ばれる塀で囲われていました。
大垣は、長さ5.5m×直径約50㎝の柱が2.5mおきに立てられた瓦葺の土塀でした。

そして、大垣に使われた5.5mの柱は後に平城京で中を刳り抜いて排水溝として再利用されます。

中を刳り抜かれた大垣の柱。


宮殿は、それまで茅葺(かやぶき)屋根でしたが初めて瓦が屋根に使われました。
藤原京で使われた瓦は200万枚と考えられていてその多くは近畿地方周辺から運ばれました、一番遠いところで香川県だそうです。
輸送コストがかかるため、後に藤原京で瓦を生産するようになりました。

藤原京には貴族や役人などが、約3~5万人が住んでいたと考えられます。
仏教文化が花開き、薬師寺(やくしじ)などの寺院も次々と建築され、今まで見たこともない最先端の都市だったと思います。


貴族の食事。
豪華!

身分の低い人の食事。
めちゃくちゃ質素で栄養失調で倒れる人もいたそうです。


富本銭

栄華を極めた日本初の京もわずか16年で廃都となり、平城京へ移ります。
原因は、周辺は沼地が多くゴミなどの処理が追い付かなくなったと考えられています。

平城京への遷都(せんと)にあたり、先ほどの大垣に使われていた柱や瓦などの多くの資材が平城京に運ばれました。
そして、周辺の寺院なども一緒に移って行き残された藤原京はやがて田畑になり歴史に埋もれていきました。


長い間、人々に忘れられていた藤原京ですが1933年小学校建設時に瓦などが発掘されました。
さらに、1966年に国道165号線のバイパス工事に先立つ発掘調査で大垣の跡が発見され藤原宮の規模が判明しました。

当初の工事では道路が藤原宮跡を通る予定でしたが、変更され藤原宮を迂回する形となりました。
その影響で、道路がほぼ直角に曲がっています。
「こういった要因が重なって奈良の道路は車で走りにくいのか~」(心の声)

今回二つの資料館を見学して驚いたことは、飛鳥時代の展示は「学生時代に習ったなー」と思い出すことはあっても、藤原京の事はほとんど覚えていなかったことでした。
ただ単に私が勉強嫌いだったためでもありますが、明日香村は学校の遠足で何度か訪れることはあっても藤原宮跡に行ったのは今回が初めてです。
すぐそばを頻繁に通って職場に行っていたのに場所すらはっきり知りませんでした。

「飛鳥の宮と平城京の間に挟まれて私の中でかなり影が薄いなあ」と思いながら見学していると、ガイドの方も同じように感じておられたようで「少しでも興味を持ってくれる人を増やしたい」と話されていました。
ガイドさん!その熱意伝わりましたよ!

長くなったのでこの辺りで終わります。
次回は、平城宮跡の資料館を紹介します。


お土産の富本銭ビスケット。
コーヒーにとても合います。


※今回紹介させていただいた2つの施設は個人利用に限り写真撮影と掲載が可能だそうです。(一部撮影禁止の展示物もありました。)