こんにちは、コタツです。
先日、曲物(まげもの)の話をしましたが、そこから発展した木材加工技術を使った三宝(さんぽう)の話をしたいと思います。
こちらのブログでも時々登場する奈良県下市町(しもいちちょう)は、三宝製造が地場産業で全国シェア90%の生産量になるそうです。
三宝制作をされている吉谷木工所(よしたにもっこうしょ)さんを見学させていただきました。
三宝の材料は地元吉野産のヒノキで、建築用の柱などを取った後の外側の材料を主に使います。
加工途中の製品。
三宝の大きな特徴は、挽き曲げ(ひきまげ)と呼ばれる技術です。
挽き曲げは、鋸(のこぎり)を使って1枚の薄い板を切り落とさないギリギリの所まで挽き木材を角に曲げる技術で、日本遺産にも認定されている技法です。
曲げる部分に鋸で細い溝が入っています。
曲げやすいように水に濡らした板を四角に曲げてボンドで接着します。
乾燥させるため積まれている製品。
後日、長年三宝制作に携わってこられたKさんにお時間をいただいて昔の三宝作りの事などお話を伺いました。
Kさんは86歳のご高齢ですが、とてもお元気でスマホを使いこなし自転車で通勤され現在も生き生きと働いておられます。
現在は、時代に合った作り方に変わり機械で挽き曲げの溝を入れていますが、昔は手作業で溝を入れていたそうです。
三宝の上の部分は折敷(おしき)や敷(しき)と呼び、穴の開いた下の部分を胴(どう)と呼びます。
敷の天は3枚の板を張り合わせて作ります。
その時、板の目(模様)、色、厚みなどをそろえる必要がありました。
そして、3枚の板をご飯を練った糊で張り合わせて1枚の板にしたそうです。
縁と天を接着するため現在ではボンドを使用しますが、昔は木釘を打ち込んで止めたそうです。
木釘も自分たちで作っていて、桜の木を細かく割って作った釘を滑りを良くするためにフライパンで米ぬかと共に炒って乾燥させながら油をしみこませたものを、天の裏側からキリで穴を開けた所に打ち込んでいました。
その穴を開けるキリも、やすりを加工して自分たちで作り木釘もキリの大きさに合わせて作っていたそうです。
また、挽き曲げの溝は昔は手作業で鋸を2本使って溝の下側が細くなるように入れていたそうです。
こうする事で曲げた時に隙間が出来にくいそうです。
ここで、少し鋸の説明をします。
溝の幅は鋸の刃の厚みによって決まりますが、もう一つは、「歯振(アサリ)」の幅でも決まります。
アサリとは、鋸のギザギザの刃が左右交互に外側に倒れている状態の事を言います。
この鋸は刃の厚みが0.30㎜でアサリによって切り幅が0.49㎜となっています。
アサリが無い鋸もあり、アサリがある物より切った断面がきれいで真っ直ぐに挽くことができます。
しかし、刃と溝が同じ幅なので挽きクズが排出されにくくアサリがある鋸より挽きにくくなります。
話は戻って、挽き曲げの溝は手で入れられていましたが、時代の流れと共に電動鋸が使用されるようになりました。
現在は使われていないそうですが、少し前までは回転する電動鋸を上下に細かく動かす事によって溝の幅を調節していたそうです。
ヘタクソですが、電動丸鋸の模型(?)を作って見ました。
実物はここまで極端ではないと思いますが、刃の真ん中でアサリの幅が変わっています。
それを、回転させながら上下に動かして細い方の刃が木材に深く当たるように調節します。
そうする事で上の画像のように曲げても隙間が目立ちにくくなります。
この溝を入れる方法は難しく機械も特殊なため、現在は均等な幅の溝を入れているそうです。
また、胴の部分に開けられた刳りの孔(あな)は、火の形を表していて現在は機械で入れていますが、昔は手作業で円を描いて大体の大きさを決めたら後はフリーハンドで刳っていたため手がける職人さんによって形の癖が出たりしたそうです。
前面と左右3か所に刳り孔が入れられているため三方と言われていました。
ちなみに四か所孔が開いたものもあって、そのまま四方(しほう)と言うそうです。
Kさんに大変興味深いお話を聞かせて頂いた後、三宝や挽曲げの歴史について調べて見ました。
奈良県吉野地方の三宝作りは、南北朝時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が吉野に皇居を移した時に献上物などを乗せるために作られたのが始まりだそうです。
挽曲げの技術が一般的になった要因として、鋸の精度が上がったためだと思われます。
日本の鋸の歴史は、石器時代や縄文時代に石で作った石鋸があったそうですが、切るというよりやすりのようにこすって使っていたと考えられています。
弥生時代末期から古墳時代にかけて鉄の精錬技術が中国から伝わり、鉄製の鋸が作られるようになりました。
岡山県の金蔵山古墳(かなぐらやまこふん)などから4世紀末期から5世紀の時代の鋸が出土しています。
上の画像は鎌倉時代に描かれた絵巻物「春日権現験記(かすがごんげんげんき)」です。
大工仕事をする人たちが描かれていて、手斧(ちょうな)や鑿(のみ)、槍鉋(やりがんな)が主に使われている作業風景の中に鋸を持った人が見られます。
この時代には、まだ丸太を縦に切って板にする鋸は無いので板を作るときは木を斧などで割ってから槍鉋や手斧できれいに仕上げていたと思われるので、建築の現場では、現在ほど鋸は活躍していなかったと考えられます。
しかし、手工芸のような細かい作業では鋸は割と活躍していたのではないかと思います。
平安時代の絵巻物に挽曲げで作ったと考えられる箱が登場します。
上の画像は平安時代に描かれた国宝「鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)」の模本です。
赤い矢印の部分に木材を曲げて真ん中で綴じた挽曲げのような四角い箱をウサギが担いでいます。
この絵巻物の原本は火事で焼失したためこの画像は後年模写されていたものです。
赤いマルで囲った部分に挽曲げで作ったような箱がお供え物っぽく置かれています。
平安時代後期から鎌倉時代にかけての絵巻物には、時々このような箱が見られます。
わざわざ板を何かで綴じたような模様を描いているので、多分挽曲げで作られた箱ではないかと考えています。
時代が進んで「法然上人伝絵巻(ほうねんしょうにんでんえまき)」は、鎌倉時代に描かれたものです。
こちらに登場するお供え物を乗せる白木地の台のようなものはよく見ると足の部分が三宝の刳り孔みたいに見えます。
しかし、これは三宝や挽曲げではなくて板を乗せたお膳だと思います。
この、脚の部分と挽曲げの箱のイメージが組み合わさって三宝の形のイメージにつながったのでは?と勝手に思っています。
実際私自身も、正倉院の宝物や仏具の脚の部分から形のイメージの参考にすることがあります。
吉野地方では、すでに白木地を使った曲げ物や挽曲げの工芸が盛んに行われており、後醍醐天皇が吉野に移って来られた時に、その技術を活かして天皇にお捧げする器物を作ろう!と白木地の三宝が作られるようになったのだと思います。
また、天皇に捧げる器物を作ることで、その職業の地位向上のようなものが計れたのではないでしょうか。
それから、白木地を使うことで清浄を表していて、現在も神社や神棚へのお供えにも三宝が広く使われています。
室町時代以降は、絵巻物などに三宝が度々登場します。
上の画像は、室町時代に描かれた「星光寺縁起絵巻(せいこうじえんぎえまき)」です。
この絵の中で貴族の宴(?)的な場面で料理を乗せた三宝が登場しています。
こうして三宝はメジャーな器物になっていったのだと思いました。
今回吉野の三宝作りを記事にするにあたって、三宝だけでなく割りばし作りや吉野塗など自分が住んでいる地域の産業や歴史の話を書くのは気合も入るしちゃんと伝えられるか緊張もします。
やっぱり、せっかく紹介するなら魅力的に、読んだ人に興味を持ってもらえるように書きたいです。
しかし、残念なことに自分の文章力が全然足りないのです。
そこをカバーするために、オタク気質な私は図書館やネットをいろいろ調べて気が済むまで関連する資料を探します。
今回の三宝に関しては、歴史的な資料があまり見つけられずに結構苦労して、なかなか納得行くような記事にならないのでしばらく放置していました。
そして、本来三宝は1年ごとに新しいものに取り換える習慣があり、小正月の「左義長(さぎちょう)」、「どんと焼き」などの行事で古い三宝は燃やしてしまうそうです。
そのためか、500年前に使われていた三宝など過去の物がほとんど残されていないし、中世の漆器や木簡が発掘されたという話は聞きますが、三宝が発掘された話は聞いたことがありません。
古いものが残っていないのは残念だなと思う反面、それが三宝作りが産業として現在も盛んに続いている一つの要因だと思います。
でも、これからも各時代何個かは歴史的資料として保管しておいてほしいなー。
私は、生まれが新興住宅地の団地なので土地の風習など無縁な環境で育ちました。
三宝も祖父母の家では使っているのを見ましたが、自分の家で飾る習慣はありませんでした。
大人になってから自分で100円均一で売っている紙を組み立てて作る三宝を買ってきてお正月に飾ったりしていました。
多分、こんな人割と多いんじゃないかと思います。
三宝作りをはじめ、日本独自の文化がこれからも続いていくように、目まぐるしく変化する時代だからこそ、改めて自分たちの国の文化や風習を見つめなおし、途切れた風習をもう一度大切にしていきたいと思いました。
そして、三宝は毎年新しいものを使おうと思いました。(でも、過去の物は資料として残しておくかも‥)
<今回見学させていただいた吉谷木工さんのHP>
<参考にさせていただいた本やサイト>
物と人間の文化史75
曲物(まげもの)
著者 岩井広実
発行所 法政大学出版局
神事・仏事と曲物--曲物の民具学的研究の断章
著者 岩井広実
掲載誌名 国立歴史民俗博物館研究報告 36号
東京国立博物館 研究情報アーカイブス
http://webarchives.tnm.jp/