お久しぶりです、コタツです。
前回ブログを頑張ると言っておきながら、またまた時間が開いてしまいました。
言い訳をすると、愛用のパソコンが壊れたり何かとトラブルの多い日々を送っております。(T . T)
今回は、石川県加賀市(かがし)を流れる大聖寺川(だいしょうじがわ)を山中温泉からさらに上流へ遡った所にかつてあった我谷村(わがたにむら)で、栗(くり)の木を使って作られていた我谷盆(わがたぼん)の話をしたいと思います。
私が我谷盆を知ったのは、山中温泉にある挽物轆轤技術研修所(ひきものろくろぎじゅつけんしゅうじょ)の基礎コース2年目に通っている時でした。
その年の課題で各自自由にデザインした盆を作る事になりました。(正式には茶道の干菓子盆)
ですが、いざ盆を作る事になったけど、まったくいいアイデアが浮かんできません
「そもそも盆て何や?」
なんて事まで考えだして困り果てた時に、図書館で「盆百選(ぼんひゃくせん)」と言う本に出会いました。
この本では全国各地で作られていた様々な盆が紹介されていました。
漆塗りのきれいなお盆も多く紹介されている中、力強い丸ノミの彫り跡を残した一枚の盆に強く
興味を惹かれました。
その盆は「我谷盆」と紹介されていて、なんと私が当時住んでいた山中温泉から近くの村で作られていた事がわかりました。
その後、いろいろな方のご縁もあり、実際に我谷盆を作ったり、現在に残っている貴重な盆を見る機会をいただきました。
我谷盆の話はこのブログを始めてからいつか書いてみたいテーマでしたが、気持ちのタイミングみたいなものが見つからずなかなか書けずにいました。
しかし、昨年末に山中温泉を訪れた時に、もう一度資料などを整理して我谷盆をブログで紹介しようと思いました。
我谷村があった場所は、1958年にダムが建設され、かつて人々が暮らしていた集落は水の底に沈みました。
見えにくいですが、水没記念碑です。
我谷ダムにかかる吊り橋は画像正面に見える富士写ヶ岳(ふじしゃがだけ)への登山ルートです。
続いて、山中温泉の中心地「菊の湯」から歩いて数分の所にある「芭蕉の館(ばしょうのやかた)」を訪れました。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう)が旅の途中で山中温泉に立ち寄り泊まった宿の隣の建物を使った資料館になります。
木造の落ち着いた雰囲気の館内には、松尾芭蕉の資料や地元山中温泉の名工による挽物や蒔絵などの作品などが展示されています。
我谷盆もその一角に展示されていて、館内の写真撮影とブログ掲載の許可を取ったところ、館長が展示ケースを開けて下さいました。
我谷八幡神社(わがたにはちまんじんじゃ)の拝殿の正面に掛けられていた額。
現在は加賀市の重要文化財に指定されています。
裏側に奉納の文字と作者、完成日が墨で書かれています。
慶応2年(西暦1866年)に作られたようです。
シンプルな形の我谷盆。
持ち手の付いた物。
側面の彫りが素敵です。
こちらは、お膳タイプ。
内側側面にしかノミの彫り跡がありません。
脚をよく見ると人間の脚の形をしています。
我谷盆にはいろいろな形があり、印象的なノミ跡がどこかに付いていれば形などは自由な感じです。
館長に少しお話を聞いたところ、我谷盆は江戸時代中頃に中筋太助(なかすじたすけ)と言う人が大工仕事の傍ら栗の木を使った盆を作ったのが始まりと考えられてるそうです。
我谷村の人達は、中筋太助さんの作った盆を「太助盆(たすけぼん)」と呼んでいました。
先ほど紹介した我谷八幡神社の額も中筋太助さんが製作されました。
その後、ダムに沈む前の我谷村で生まれ育ったH先生のお宅を訪れました。
H先生は私の友人の師匠なのですが、挽物の名工であり木材や自然の事や挽物の刃物作りの知識も大変豊富な方で、80代半ばでありながら足取りも軽やかで、若々しくお話しても大変楽しい方です。
私が山中温泉に住んでいた時は、友人のオマケ(車の運転要員)としていろいろな所に連れて行っていただき、轆轤だけでは無いたくさんの事を学ばせていただきました。
我谷盆の話を聞くならH先生しかいないと思い今回お話を伺いました。
以前いただいた、H先生自作の我谷盆の事がまとめられている資料。
まず、我谷盆に主に栗の木が使われている理由ですが、昔この地域はコバ板(木羽板)と言う30㎝ほどの薄い板で屋根をおおっていました。
他の木材では腐りやすいため栗の木が使われていました。
コバ板の屋根が描かれています。
明治・大正期の山中温泉街。
少し見えにくいですが、石を乗せた屋根が見えます。
我谷村では、コバ板を作るコバヘギを仕事とする人も多く、冬の空いた時間に栗やケヤキ、ヒノキなどを使い椀や皿、盆などを作り現在の加賀市大聖寺(だいしょうじ)の町で販売していました。
特に丸ノミの彫り跡を入れた物は喜ばれて「我谷盆」と呼ばれていたそうです。
芭蕉の館に展示されていたへぎナタ。
これで、木を薄く割りコバ板を作ります。
H先生が作ったへぎナタのレプリカ(刃はベニヤ製)。
へぎナタの柄は樫(かし)の木で作られていて、昭和初期には薪を使って動かす木炭自動車の木を割るためにどこの家にもあったそうです。
明治時代には国鉄(現在のJR)北陸線の線路の枕木として腐りにくい栗の木が大量に使われたため我谷村の栗の木が無くなってしまったそうです。
やがて我谷村で我谷盆は作られなくなりました。
家の屋根が瓦に変わっていきコバ板の重要が無くなったのも原因の一つかなと思います。
しかし、我谷盆に魅了された他の地域に住む木彫作家の方達が作り繋げて、現在も日本のどこかで我谷盆が作られています。
帰りにH先生に栗の生木をいただきました。
盆などを作る時に原木を割って板にする時に使う木割り矢。
自宅に帰ってから木を割ってみました。
木割り矢はヤフオクで買いました。
木目や厚みを考えて木割り矢をハンマーで打ち込みます。
パキパキ音をたてながら木が割れてきました。
開いた隙間にさらに木片を打ち込みます。
木の繊維の粘りが強くてなかなか割れません。
その辺にある木片を総動員して打ち込みます。
やっと割れました。
たぶん慣れた人はもっときれいに割るはず…。
我谷盆は、木の大きさや割れた厚みで形を決めるので同じ形の物はあまり無いそうです。
割っておいてなんですが、この木材の加工はいずれ別の記事で書きたいと思います。
今回は、H先生からいただいた別の材料を使って我谷盆を作ってみました。
B5サイズより少し小さめの板。
適当にフチを決めて中を彫ります。
我谷盆の特徴の丸ノミの跡をつけていきます。
底面が完成したら側面を彫ります。
しかし、使っていた丸ノミが曲がった造りをしていて上手く使えず全然作業が楽しくありません。
そこで、作業を中断してAmazonで丸ノミを買うことにしました。
画像だけを見て「なんか良さそう!」と選んだ物が届いてビックリ!
「全然幅違うやん!」(普通は買う前に気付く…。)
仕方がないのでもう一度ノミ跡を付け直す事に…。(T . T)
でも、道具が使いやすくて作業がサクサク進んで楽しい!
側面にもノミ跡を入れます。
二度手間終了っ!
手持ちの道具を使ってあの手この手で裏面をきれいにします。
なんとか我谷風の盆が完成しました。
下手くそなので我谷盆て言ったら怒られそう…。
紅茶とお菓子を置いてみました。
全体的に茶色い💦
我谷盆は栗の生木を一気に仕上げるため、乾燥に伴い木が変形する事が多く、中には割れてしまい割れ止めの金属を打ち込んで使っていた物もあるそうです。
変形してガタガタしたところも含めて日常生活で使われていた我谷盆の魅力だと思います。
今では、人々の生活で賑わったかつての我谷村を知る人は少なくなってしまいました。
自由に作られていた我谷盆に魅了される人がもっと増えて、栗の木のある様々な地域でそれぞれ違った形の我谷盆が出来て、やがて海外にも広がり「WAGATABON」になれば面白いなと思いました。
【参考にさせていただいた資料】
盆百選
著 者:瀬良陽介
出版社:平安堂書店
石川県立歴史博物館 紀要 17
我谷盆について
著 者:本谷文雄