器とたべもの

食べ物や器のことをとりとめなく書いていきたいです。時々木の器を作ってます。

豊臣秀吉も見た絶景!春の喜びに包まれる吉野山

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こんにちは、コタツです。
今年も桜の季節がやってきました。

私が住む奈良県は、雨も少なく絶好のお花見日和が続いています。

そこで、桜を満喫しようと奈良県を代表する桜の名所「吉野山」に登って来ました。

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近鉄吉野駅から歩いて登ります。

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ロープウェイ乗りたい!
まだ、駅を出発して5分も経っていませんが…。
(*´-`)

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景色はキレイです。
でも、しんどい(ヘタレ)。

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下千本エリアに到着しました。しかし、まだまだ坂道が続きます。

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金峯山寺(きんぷせんじ)に到着しました。
有名な青い秘仏金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)が特別公開されていました。

金峯山寺は、このブログで時々紹介している修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が金峰山上にて厳しい修行の末に金剛蔵王大権現を感得し山桜の木にその姿を彫り山上ヶ岳の頂上と山下の吉野山に祀ったのが始まりと伝えられています。

吉野山は、吉野山と和歌山県の熊野を結ぶ「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」と呼ばれる修行の道があるなど修験道の聖地だけでは無く、神社やお寺が多くあり歴史的にも重要な地域でありました。

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中でも白鳳時代に役行者により建立された「吉水神社(よしみずじんじゃ)」(元は寺院でしたが、明治時代に神社になったそうです。)は、1185年に源頼朝(みなもとのよりとも)に追われた源義経(みなもとのよしつね)が武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)や静御前(しずかごぜん)らと逃げ込み身を潜めた場所であります。

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日本最古の書院建築。
内部を見学時に許可を得て写真を撮らせていただきました。

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役行者と前鬼後鬼像。

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弁慶が所持していた武器。


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そして、南北朝時代には南朝の皇居がありました。
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後醍醐天皇玉座

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後醍醐天皇縁の品々

さらに、天下を治めた豊臣秀吉が1594年に5000人の家来を引き連れ花見を行った際、吉水神社に本陣を構え数日間滞在しました。
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花見は5日間予定されていましたが、最初の3日間が雨でした。

雨が続くことに対して僧侶が、吉野山では禁止されている肉食を秀吉達が行ったためだと言いました。

その言葉にブチキレた秀吉は、ただちに肉食を禁止し、僧に向かって「明日までに雨が止まなければ吉野山を焼き討ちにするぞ!」と言い放ちました。

そして、吉野山の僧侶達は全員一晩中寝ずに祈祷を続けた結果、次の日は雨が止み晴れ渡りました。

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「一目千本」と書かれたこの場所から満開の桜を眺めて秀吉は、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と大はしゃぎして喜んだそうです。(僧侶の皆様お疲れ様です。)


食いしん坊の私が気になるのは、秀吉達は花見で何を食べたのかです。
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豊太閤「吉野之花見図屏風」(こちらは複製で、本物は京都の細見美術館にあります。)

目を凝らして見てみると重箱やお椀は確認できますが、中身はわかりません。

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豊臣秀頼公寄贈と書かれた湯釜。
結構大きいです。お茶会に使ったのでしょうか?


吉水神社を離れて、竹林院群芳園(ちくりんいんぐんぽうえん)にやって来ました。
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こちらは、聖徳太子創建と伝わる寺院で、宿坊としても有名です。

館内には豊臣秀吉の花見時に使われた、重箱と金色のひょうたんのセットが展示されています。
また、宿泊時や昼食では千利休が考案したとされる、生姜を効かせた汁に吉野葛を使ってトロミをつけ具材を煮込んだ「利休鍋」がいただけます。
いつか食べてみたいなー。

そして、こちらの庭園は、吉野山の花見の時に千利休が改築したとされる庭園を見学することができます。
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しかし、千利休はこの花見より以前の1591年に切腹しこの世を去っているため、戦国大名の細川幽斎(ほそかわゆうさい)が改築したとも考えられています。

秀吉自ら茶屋の下男に扮して武将達をもてなすコスプレパーティーみたいなイベントも行われ、現在の桜の下で飲んだり食べたりする花見スタイルは、この吉野の花見が始まりと考えられています。


吉野の花見から4年後の1598年、秀吉最晩年に京都の醍醐寺で1300人を引き連れて花見を行なっています。

その時、誕生したのが3色の花見団子だそうです。
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ああっ!ブレブレや〜。
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花見団子やヨモギ餅も食べたのかな?


今年の、吉野山も多くの人が訪れ、桜を眺めながらお弁当を食べたり店先で売っているお団子やソフトクリームを食べたりして、秀吉の花見に負けない位とても賑わっていました。

帰り道、立ち寄ったお土産屋のお店の人が、「こんなに、人が多いのは久しぶりやわ!」と嬉しそうに話されていたのが印象的でした。