器とたべもの

食べ物や器のことをとりとめなく書いていきたいです。時々木の器を作ってます。

日野椀(ひのわん)と近江日野商人(おうみひのしょうにん)

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こんにちはコタツです。
11月に入り秋晴れの爽やかな気候に誘われて滋賀県日野町(ひのちょう)に行ってきました。

近江商人と言えば近江八幡(おうみはちまん)の商人が有名ですが、ここ日野町を出発地とした近江日野商人(おうみひのしょうにん)も江戸時代に大活躍し、その活躍は形を変えて現在まで続いています。

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日野町にある「近江日野商人館」に行きました。
こちらは、近江日野商人の山中兵右衛門(やまなかひょうえもん)の本宅を活用した資料館で近江日野商人の歴史を詳しく知ることができます。
許可を得て写真撮影させていただきました。

近江日野商人が、最初に扱った主力商品が「日野椀(ひのわん)」と呼ばれる漆器です。
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日野の町では室町時代の1400年から1500年頃にかけて漆器の生産が行われていたようです。

しかし、領主の蒲生氏郷(がもううじさと)が伊勢へ国替えで離れたことにより日野町と共に漆器産業も衰退していきます。

その後、江戸時代に入り近江日野商人が誕生し漆器産業も復活します。

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館内は大量の日野椀が展示されています。

日野椀は高価な漆器も作られていましたが、「安くて丈夫な塗り椀」を売りに大量生産し江戸の町ではなく周辺の農村地域に積極的に売り歩きました。
塗り椀は当時高価でハレの日用の食器としても庶民にはなかなか手が届かないものでしたが、日野椀は農村部の人にも買える安価なものだったので大ヒット商品になりました。

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だいたい一軒につき婚礼などの慶事用と葬儀などの弔事用に各20組がお膳とセットで売れていたようです。

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作業工程の見本と絵。

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当時の轆轤(ろくろ)。削る人と縄を引っ張り轆轤を回転させる人2人必要でした。

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1650年頃から因幡の国(現在の鳥取県)より材料の栃(とち)やブナなどの大量供給が始まります。その時の船の輸送ルートです。
日本海側から関門海峡、瀬戸内海を経て伊勢湾に運ばれます。

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日野椀の断面。「安くて丈夫」が売りなので、かなり底が厚めに作られています。 
また、塗りの下地も他の産地では砥の粉(砥石の粉)と漆を練り混ぜた下地を使ったりしますが、製造コストを抑えるために柿渋を塗った後に炭と漆を混ぜた下地を塗っています。また、表面の漆も「せしめ漆」と言う品質の悪い漆を使っていました。

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また、木が多少動いて椀の形が変形しても良いようにフタを被せる形にしているとの事でした。
写真撮り忘れましたが、展示されているお椀も少し楕円形になっていました。
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上の写真のようにフタが親の椀に落ち込む形だと木が変形したらフタと親が合わなくなります。

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日野商人達は「日野大当番仲間(ひのおおとうばんなかま)」と言う商人組合を結成しました。
それまで個人で動いていた商人をまとめ組織的に効率よく商いができるようにサポートしました。
東海道の各宿場町に定宿(じょうやど)を作り加盟商人の宿泊だけで無く、定宿に商品を在庫として置いておくなど現在の物流センターみたいな役割もありました。
また、それぞれの宿場間に飛脚を走らせて物資の輸送だけで無く素早い情報伝達を可能にしました。

日野商人の活躍により日野椀は江戸だけでなく京都や大阪に広く普及しブランド品として知名度を上げました。

しかし、今から300年前から日野の町では薬が作られ始め製薬業が盛んになっていきます。
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今も製造されている「萬病感應丸(まんびょうかんおうがん)」。

日野の薬は「日野合薬(ひのあわせぐすり)」としてヒット商品になります。
やがて、日野商人の扱う主力商品が漆器から薬に変わっていき漆器産業は衰退し日野椀は姿を消していきました。

近江日野商人大当番仲間は思想家石田梅巖(いしだばいがん)の心学(しんがく)を用いて加盟商人に以下の商業道徳を義務付けました。
仁=他人を思いやる心
義=人として正しい心
礼=相手を敬う心
智=工夫を凝らす心
信=信用される心

現在でも、この理念を大切に製薬業や醸造業などで日野商人の流れを汲む企業が続いています。

その他こちらの施設の見所は建物の材料に貴重な木材がいっぱい使われていてとても楽しめます。
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山桜を使った床。
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屋久杉の天井板だったかな?
情報が多くて忘れてしまいました💦

あと、戦時中に陶器で作られたけど、結局使われなかった幻のお金「陶貨(とうか)」などが展示されていて見応えがあります。

少しだけ見ようと思っていましたが、おもしろくてついつい長居してしまいました。

近江日野商人館を出て日野の町を散策します。

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観光協会。

日野の町の印象は高い建物が少なくて空が開放的に見えます。昔の木造建築もちらほら残っていて派手さはなく渋い作りでそこがまた、この街の静けさと合わさってよい雰囲気です。

ただし、道は割と細めなので車の場合スピードの出し過ぎに気をつけたほうが良いです。

次に向かったのは、「近江日野商人ふるさと館 旧山中正吉邸」です。
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こちはでは、土日のみ5食限定の「鯛そうめん」をいただきました。
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他にも予約すればこんなご馳走がいただけます。

お屋敷の中の豪華な和室でいただきます。
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現代の作家さんが復活させた日野椀に盛り付けられています。

鯛そうめんは、鯛の煮汁でそうめんを炊いたハレの料理です。
そうめんに味がしっかり染み込んでいて、とてもおいしかったです。

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日野町名物の日野菜の漬け物。

日野椀を持った印象は底が厚いのでやや重く感じます。
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日野椀と書かれている高台の中は、丸く削られていて汚れがたまりにくく洗いやすい作りです。

食後、お屋敷を見学させていただきました。
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すごく立派なかまどです。
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襖の絵もオシャレです。
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私の中で今話題の黒柿!
この屋敷の当主が座っていたそうです。黒柿は表面だけです。

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客人用の豪華なお風呂と洋室。

今回、他にも予定があったので割と駆け足で見てまわりましたが、日野椀のことをいろいろ知れて楽しかったです。また、ゆっくり歩いてみたいです。

高級な漆器しか作っていなかったら、歴史のある京都とかの産地には太刀打ちできなかったのでは無いかと思いました。
また、今まで京都や大阪中心だった世の中が江戸に移り日野商人が生まれました。
そして、今まで高級な塗り物に縁がなかった農村部をターゲットに手が届く所まで価格を下げて提供し広く普及させた販売手法は見事だなと感じました。

世の中のルールが変わればそれに柔軟に合わせていく軽やかな思考が近江日野商人の活躍に繋がったのかなと思いました。

今も農村部の古い家には日野椀が眠っているかもしれませんね。